下長遺跡について
弊社敷地より遺跡発掘 古高町 下長遺跡 -有力豪族のあかし-
儀杖と傾斜独立棟持ち柱跡出土
守山市教育委員会が6月から発掘調査を進めていた、古高町の工業団地内にある下長(しもなが)遺跡で弥生時代後期から古墳時代前期にかけての堀立柱建物跡と翳(さしば)形木製品が見つかりました。この遺跡は、弥生時代の下之郷遺跡や二ノ畦・横枕遺跡、伊勢遺跡とともに、野洲川流域一帯を支配した有力豪族の居館跡と祭場跡と推定されます。
今回の建物跡で代表される、弥生時代後期(二世紀末)の南北7.8メートル、東西4.5メートルのものと古墳時代前期(三世紀後半)の南北5メートル、東西4メートルのものはいずれも棟を支える独立棟持ち柱がある構造。
弥生時代の建物跡は、長径1.6メートル、短径1.2メートルもある大きなだ円形の柱穴が掘られてあり、大型建物です。
また、古墳時代の建物跡は直径60センチの柱穴に残っていた柱根から、20センチの杉の角柱が使われていたことがわかりました。またこの建物の棟持ち柱 は、26度に傾斜した丸い杉材の出土から、これまでより大きく傾斜した棟持ち柱とされ、この建物は祭殿と考えられています。
これら建物跡の発見は、弥生時代から古墳時代にかけて柱が丸から角に変化する技術発展を実証することができ、さらに、26度に傾斜した棟持ち柱の祭殿は全国初のことで、注目されています。
翳はむかし、天皇が拝賀のとき、群臣の前に出御するときに従者が天皇の顔に翳(かざ)すものですが、今回の出土について大阪大学の都出比呂志教授は「豪族 が儀式のときに手に持つ儀仗(ぎじょう)の可能性が高く、下長遺跡には強力な勢力を持った豪族が住まいしていた証拠になる」と評価されています。
平成九年九月七日に行われた現地説明会には、市内外から考古学ファンら約百五十人が参加。当時の豪族の住まいなどに、思いをはせていました。